sinse2011/6/15            

         神の国の到来が近づいています。みなさん、心の準備はよろしいでしょうか。

 

 (English)


 

                1.第2の手紙

 

    聖書を読まれたことがあれば御存知かと思いますが、聖書の中の各預言書
  は「神の国」の到来とメシア(キリスト)の出現をテーマにしています。その内容を
  少し聖書(口語訳)から引用します。

     見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
     さきの事はおぼえられることなく、
     心に思い起すことはない。
     しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、
     とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
     見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、
     その民を楽しみとする。
     わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。
     泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。  (イザヤ 65−17)

    終りの日に次のことが起る。
     主の家の山は、
     もろもろの山のかしらとして堅く立ち、
     もろもろの峰よりも高くそびえ、
     すべて国はこれに流れてき、
     多くの民は来て言う、
     「さあ、われわれは主の山に登り、
     ヤコブの神の家へ行こう。
     彼はその道をわれわれに教えられる、
     われわれはその道に歩もう」と。
     律法はシオンから出、
     主の言葉はエルサレムから出るからである。
     彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
     多くの民のために仲裁に立たれる。
     こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、かまとし、
     国は国にむかって、つるぎをあげず、
     彼らはもはや戦いのことを学ばない。           (イザヤ 2−2)

    わたしの支持するわがしもべ。
   わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
   わたしはわが霊を彼に与えた。
   彼はもろもろの国びとに道をしめす。
   彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、
   その声をちまたに聞えさせず、
   また傷ついた葦を折ることなく、
   ほのぐらい灯心を消すことなく、
   真実をもって道をしめす。
   彼は衰えず、落胆せず、
   ついに道を地に確立する。
   海沿いの国々はその教を待ち望む。        (イザヤ 42−1)

  
   エッサイの株から一つの芽が出、
   その根から一つの若枝が生えて実を結び、
   その上に主の霊がとどまる。
   これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
   主を知る知識と主を恐れる霊である。
   彼は主を恐れることを楽しみとし、
   その目の見るところによって、さばきをなさず、
   その耳の聞くところによって、定めをなさず、
   正義をもって貧しい者をさばき、
   公平をもって国のうちの
   柔和な者のために定めをなし、
   その口のむちをもって国を撃ち、
   そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
   正義はその腰の帯となり、
   忠信はその身の帯となる。             (イザヤ11−1)

 しかし、これらの平和と喜びに満ちた「神の国」(☆1ー関連預言あり)が到来する
前に、世界には大きな試練と苦難があるようです。

  「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。……世の
  終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人
  に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現
  れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と
  戦争のうわさを聞くであろう。注意していなさい。あわててはいけない。そ
  れは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して
  立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであ
  ろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、
  あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わた
  しの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつま
  ずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起っ
  て、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が
  冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国
  の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられ
  るであろう。そしてそれから最後が来るのである。  (マタイ 24−3〉

 さて、現代社会において、すでに麻原彰晃、大川隆法、文鮮明といった多くの
にせメシアが現れていますが、ここで言われている「あなたがたは、わたしの名
のゆえにすべての民に憎まれる」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。
世界にはカトリック教徒だけでも八億人以上いると言われ、プロテスタントも含
めれば十数億人の人々がイエスを信じています。それなのに、どうしてこんなこ
とが起きるのでしょうか。実は、聖書自身がその回答を暗示しています。ヨハネ
の福音書(16−12)には「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあ
るが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、
あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのでは
なく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」
とあります。また、ヨハネの黙示録(5−1)にも次のように預言されています。

 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側に
 も外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い
 御使いが、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」
 と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開い
 て、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見
 るのにふさわしい者が見当たらないので、わたしは激しく泣いていた。すると長
 老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビテの若枝で
 あるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
  わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみ
 える小羊が立っているのを見た。…、小羊は進み出て、御座にいますかたの右の
 手から、巻物を受けとった。…、彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそ
 は、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。

 ここで、「真理の御霊」、「ダビデの若枝」、「ほふられた小羊」はともにキリ
ストのことです。つまり、「終りの日」に現れるキリストは、ある重大な真実を
明らかにすると暗示されているのです。しかしそうは言っても、キリストはもう
二〇〇〇年も前に来られたのでは? ところが実は、驚くべきことにまだキリス
トは来ていないのです。それでは、イエスは一体何者? 残念ながら、イエスも
またにせキリストの一人だと言わなければなりません。本物のキリストが現れた
とき、世界の人々はイエスと新しいキリストの二人を同時に見ることになります。
しかしもちろん、新しいキリストは生身の人間で、雲の上に乗っているというよ
うな空想的なイエスの再臨ではありません。このところは重大なことですので少
し説明しておきます。イエスはこの「人の子」預言をダニエル書によっています。
ダニエル書を読んでいただければわかるように、彼の預言は幻の形をとっていま
す。ダニエル書に出てくる奇怪な獣がそのまま出てくると考えるのはナンセンス
なように、また、ダニエル書自身が語っているように、それらは解釈が必要なも
のです。だから、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」というダニエルの
幻も当然合理的な解釈が必要で、イエスはここで間違えました。イザヤ書等を
よく読んでいただければわかるように、「終りの日」に現れるメシアは生身の人
間です。すべての秘密が明らかになります。イエスはにせキリストであった! 
巨大な衝撃が世界を駆け巡ります。キリスト教国は大パニックになります。その
ときの情景を多くの予言者たちが語っています。ノストラダムス(☆2)の予言詩
から少し紹介します。『諸世紀』〔大乗和子訳 たま出版〕から。

 五〇〇年間くらいか はっきりかぞえられないが      (3.94)
 彼の時代を飾るようなこと
 とつぜん大きな光が与えられ
 その時代のために彼は人々を 最も満たされたものとするだろう

 教会や各宗派は幻想にかえられ              (1.96)
 破壊にむかうだろう
 生きることよりもいっそう大きい傷を石にするだろう
 人々はなめらかな舌で耳をとりもどすだろう

 ああ なんと多くの人々に苦痛を与えることだろう    (1.53)
 そしてすべての廃虚の中に聖なる法が
 金銀の新しい鉱山が発見されるときには
 他の法によって 全キリスト教は心をわずらわすことになるだろう

 教会の人々の血が流れ                  (8.98)
 水のように多く
 ながいあいだとどまることなく
 破滅と悲しみが牧師のうえにある

 世界のまん中にバラが                  (5.96)
 新しいおこないで血は公然と流れ
 ほんとうをいうと みなが口を閉ざし
 そのとき人はいつまでも人をさがし求めるだろう

 宗派に従う者は密告者に大きな痛手を与え      (1.45)
 獣は舞台に情景を用意し
 不正な事実の発見者は有名になるだろう
 そして宗派で世界は混乱し分裂するだろう

 いま過去とともにいっしょに               (10.73)
 陽気な人にさばかれ
 世界はついに彼を疲れさせる
 そして信頼なく教会は危機をむかえる

  それから長い間不毛の時を五十回ほども過ぎますと、全キリスト教会を更
 新するところの人が出現するでありましょう。そこでは多くの王国を長い間
 さ迷い、分散させられていた多種族の子供の間に、大いなる平和と結合そし
 て一致が見られるでありましょう。      (アンリ二世への手紙)

 また、カトリックの幻視者トランペッターという人が聖母マリヤの大警告を伝
えています(スペインのガラバングルで告げられたメッセージ)。『セカンド・
ドラフト 上』 〔P141土屋書店〕。

  大警告はまもなくやって来ます。
 その大警告によって、人びとは、まもなく自分の前に神がどのように立って
 いるかを正確に知るようになるでしょう。
  その時、人びとはこれまでの生活を続けるか、それとも改めるかの選択を
 余儀なくされるでしょう。
  多くの人びとは変わります。悔い改めます。そして多くの人びとは絶望し
 ます。彼らは希望がないと考えて、自殺します。なぜなら、彼らはあまりに
 も多くの罪のため、その重荷を背負うことができなくなるからです。
  聖母の出現を受けたローリ・マソンは、そのことを次のように告げている。
 「それはまるで火のようであり、目で見ることも、体で感じることもでき、
 人間の罪の状態の醜さを見るようなものです。一瞬のうちにすべてのモータ
 ーがストップし、その恐ろしさにふれて死ぬひともいるでしょう」

 そして、以上のような予言を踏まえて聖書を読んでいくと、今までは不可解で
あったことがすべて明瞭に理解できるようになります。二、三の例をあげると、
ヨハネの黙示録とエレミヤ書にでてくる「にがよもぎ」は、前記のことがらだと
わかります。

 第三の御使いが、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えて
 いる大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水
 源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦
 よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が
 死んだ。                      (黙 8−10〉

 それゆえ万軍の主は預言者についてこう言われる、
 「見よ、わたしは彼らに、にがよもぎを食べさせ、
 毒の水を飲ませる。
 神を汚すことがエルサレムの預言者から出て、
 全地に及んでいるからである」。        (エレミヤ 23−15)

  また、宗派にもなっているborn−againの考えかたは、日々の反省的な態度
のことではなく、まさに審判の直前に人々がせまられることなのだと理解できま
す。

  「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を
 見ることはできない」(ヨハネ 3−3)

 世界の混乱は頂点に達します。「サン・ピエトロ大聖堂を中心に広がるヴァチ
カン。大分裂はここからはじまって世界中のカトリック教会に浸透し、混乱のき
わみに陥る」(トランペッター)。「枢機卿は枢機卿に、司教は司教に敵対するで
しょう」(ファチマ 第三の予言)(☆3)。しかし、衝撃と混乱のあと、反キリス
トと呼ばれるべき人々の反撃がはじまります。これらの人たちは、変われなかっ
た人、あるいは変わりたくない人々で、毒を食らわば皿までの精神で破滅に向か
うことになります。世界は、キリスト派と反キリスト派(つまリイエス派)と真っ
二つに分かれて争うことになります。しかし、本物のキリストを信じる人々が暴
力的であるはずがありません。すべての暴挙はイエスを信じる人々によって行わ
れます。
 
 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、
 衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、
 彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての
 民に宣べ伝えられなければならない。そして、人々があなたがたを連れて行
 って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自
 分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊
 である。また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって
 立ち、彼らを殺させるであろう。また、あなたがたはわたしの名のゆえに、
 すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
                            (マルコ 13−9)

  ここで注意してほしいことは、「わたしの名のゆえに」というのは本物のキリ
 ストの名のゆえにということですから、迫害する側はイエスの側で、迫害される
 側は新しいキリストの側ということになります。ちょっとややこしいですけれど。
 
 また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。また、
 大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。さ
 らに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、
 つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に
 命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさ
 えできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さ
 き者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷に
 も、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者
 はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。   (黙13−12)

 ここで獣の像とは、もちろんイエス像のことです(☆4)。このような状況は、本当に
つらいものですが、幸い日本ではこのようなことは起りそうもありません。しか
し、キリスト教国の人々には、たいへん過酷な試練になるでしょう。そして、こ
の対立は国家レベル的でもあるようです。再び、ノストラダムスの予言詩から、
5章の53。なお、この詩の解説は『ノストラダムスの大予言』の著者、五島勉氏
のものを紹介したいと思います。「スペシャル日本編」から引用します

  日の国の法と金星の法が競いあう
  予言のエスプリをわがものとしながら
  双方たがいに耳をかたむけないが
  大きなメシーの法は日の国によって保たれるだろう

 これが「大きなメシーの詩」である。ノストラダムスの全予言の中で、た
った一編、″メシー”という究極の言葉が入っている特別な詩だ。
 そのためか、闇の勢力からの干渉はすごかった。絶対に知ってはならない
詩、知らせてもならない詩、とプロの研究者のあいだで古くから言い伝えら
れてきた。詩の原文そのものも、一六世紀には『諸世紀』に載せられていた
が、一七、八世紀ごろには(ほか何編かの空白詩の一部とともに)、しばし
ばこの詩が『諸世紀』から削りとられ、印刷されなかった。
 しかしノストラダムス自身は生前、「この詩(の原文)を見た人は、それだ
けでもめぐまれるようになる。とくに四行目(の原文)を声に出して読めば、
いっそう幸運に恵まれる。詩の真の意味を知れば、さらに輝く人生を送れる。
なにしろこの詩は、わたしが精魂込めて書き、”大きなメシーの法”とつな
がっているんだからね」と友人に話したという。
 もしそうならば、ごく短くしかもさりげないこんな詩句が、なぜそれほど
強烈な力を持つのか。またそんな強い力を与える”メシー”とは何なのだろ
か。わかりやすい発音でいえば、それはメシアだ。英語でいえばメサイアに
なる。辞書では「救世主」と訳されている。つまり 世界と人類を救うもの
がメシーだ。
「じゃ、もちろん、わが主イエス・キリストのことですね」とクリスチャン
は思うだろう。イスラム教の人は「われらの神アッラーのことに違いない」
と思うだろうし、ユダヤ教の人は、「われわれの聖典(旧約聖書)に記された
唯一の神ヤーウェ(エホバ)こそ真の救世主」と言い切るだろう。
 しかし、この詩に予言された”大きなメシー”は、それらのどれでもない
ようだ。これは未来に向けての予言なので、古代のイエス・キリストや聖書
に記された古代の神のことが、一六世紀になって予言されたはずはないか
らだ。
「いや、それはおかしい。ノストラダムスは中世のキリスト教徒で、血すじ
はユダヤ人だった。この本にも以前の『大予言』シリーズにも、そのことは
繰り返し書かれていた。
 ならば彼が予言したメシーも、当然、ユダヤ教かキリスト教の救世主だろ
う。キリスト教では、世界が戦争と異変で破滅するときに、イエスが再臨し
て(もう一度地上に戻って)、人類を救うことになっている。ユダヤ教でも、
近未来の人類破滅の日、主メシアが天下ってユダヤ民族を救うという。
 古代の聖書に出てくるメシアやイエスが、同時に未来の救世主でもあるわ
けだ。キリスト教でユダヤ人のノストラダムスが予言したメシーも、当然こ
れと同じものだったろう」
 聖書の知識のある人は、こんなふうに言うかもしれない。そして、ほかの
すべてのユダヤ系、キリスト教系の予言に対してなら、このとらえ方でたし
かに正しい。
 だが、ノストラダムスの右の詩にかぎっては、この常識も伝統も通用しな
い。お読みのとおり、右の詩の四行目には「大きなメシーの法」が「日の国
によって保たれる」と、明快に記されているからである。

「日の国」が生む 真のメシア とは何か

 この「日の国」を日本と解くのはいうまでもない。しかし「大きなメシー」
はいままでの常識では解けない。これを常識どおりユダヤ教かキリスト教の
救世主と解き、「それが日本によって保たれる」とまとめると、わけのわか
らないことになるからだ。
 たしかに、日本にもキリスト教の学校や教会はたくさんあり、麻布か清里
あたりの白い教会で結婚式を挙げるのは、若い人たちの流行になっている。
だが肝心のクリスチャンの数は日本全国、各派合わせて一〇〇万人もいない
のだ。
 つまり、それは小数派かまたはファッションなので、「国」がキリスト教
の救世主を保持している、というのとは全然違う。
 それを保持しているといえるのは、もちろん欧米のキリスト教諸国である。
彼らは一〇〇〇年も二〇〇〇年も前からキリスト教を保ち、多くの人がイエ
スは救世主だと信じている。ユダヤ教の場合も、イスラエルの人々は三〇〇
〇年も前からそれを保ち、エホバこそメシアだと信じきっている。
 こういう人たちをさしおいて、国民の大半が仏教徒の日本が、イエスやエ
ホバを救世主として保つ、なんてことはありえない。だからここでいうメシ
アはイエスでもエホバでもない。
 しかも右の詩で、「日の国が保つ」ものとして予言されているのは、メシ
アそのものではなく、あくまでも”大きなメシー”の「法」なのである。こ
の原句はloy(現代フランス語のloi)だが、これには「法律・原理・道・
生き方」などの意味のほか、中世の物語や哲学用語として、「人間・生命・
宇宙をつらぬく永遠の法則」といった意味があった。
 これもユダヤ・キリスト教のメシアと相容れない。キリスト教の救いの原
点は、人間の罪を背負って十字架にかけられたイエス自身の血と肉(その象
徴としてお祈りで聖められたワインとパン)だ。ユダヤの救世主エホバも、
一見気まぐれな愛や怒りや憐れみで=つまり「神の感情」でユダヤ民族を
救うのだ。
「人間・生命・宇宙をつらぬく法則」による救いは、これと一八〇度違う。
ということは、ここで予言されている”大きなメシーの法”は、ユダヤ・キ
リスト教とはまるで正反対の、だからおそらく東洋的な次元の救いであるこ
とが、こうしてだんだんわかってくるのである。
 それを「日の国が保つ」というならば、それは日本がこれから生み出し、
または現に生み出している、科学か超技術か哲学か宗教か生き方か、あるい
はそれらを総合したもっと大きな何かだと思われる。
 それが一行目の「金星の法」=いままでの文明の主流であるアメリカ的
な科学や文化や宗教と「競いあう」。そしてそれらを乗り越え、ついには人
類を戦争や汚染や大異変など近未来の破滅から救う。つまり「日の国」の生
む新しい何かが真のメシアになる。そのことをこの詩は、ユダヤ人でクリス
チャンだった彼の血を越えて激しく予言したといえるのだ。

超ハイテクと新しい心が結びつく

 ささの「純粋なきらめき」も、おそらくこれと関係があるだろう。あれが
戦争や汚染をいっぺんにぶっとばすメイド・イン・ジャパンの超ハイテク、
光の地球クリーニングのようなものならば、それは「日の国の大きなメシー
の法」の中身のひとつだと言っていい。
 そうなら、それは前に述べた「別のものの詩」(『諸世紀』1巻48)とも
つながる。復習すれば、「日の国 が西暦二〇〇〇年、それまでの時代を
耐えられないと感じ、方向を変えて”別のもの”の王国を打ち立てるときに
だけ、わたし(ノストラダムス)の大予言は終了し、別の未来がひらける」。
 これはこれまでの解釈でも、いまの軍備や汚染の文明とは「別の」文明、
いまの文明を生み出したユダヤ・キリスト教・西欧理念とは「別の」生き方、
とされてきた。
 この解釈を変える気はさらさらない。ということは、これは光のクリーニ
ング的超ハイテクとともに生まれる、心と生き方の高次元への革命だという
ことになるだろう。
  こうしてこれら一群の希望の詩は、「別のもの」も、「純粋なきらめき」
も「大きなメシーの法」も、何か巨大な新しい明るい未来を、それぞれ別の
角度から言っているらしいことがわかってくる。しかも、そのすべてに「日
の国」という指定がかぶせられている。
 といっても私はべつに、国粋主義者ではないし民族主義者でもない。日本
や日本人を、とくに熱愛しているわけでもない。
 海外へ行ったときには、何かと物騒で、どこか冷たくって治安の悪い外国
をいやだなと思い、日本が最高だと思う。しかし日本で暮らしていると、何
ごともカネカネカネ、騒音も暴走もまったく野放しの感覚にあきれ、乾いて
静かな外国の町がいいなと思う。
 その程度の、いたっていいかげんな人間である。ノストラダムスの解読に
しても、やっていてたしかに憑かれたようになるときはあるが、もともとは
物書きという職業上、ただ職人のようにやってきただけなのだ。
 それでも以上のようになってしまう。ほかの国への予言には絶対出てこな
い、未来への強烈な使命と噴き上がる希望が、「日の国」の禁じられた予言
にだけ出てくる。しかも予言したのは空前絶後の超能力者ノストラダムス、
それこそ”日”が昇るのと同じくらいの確率で当たるのだ。
 これで決まる。混迷の、近未来の、世界を救うのは日本だ。日本が生む哲
学か宗教の法、画期的な超ハイテク、それらを総合した何かが人類を救
う。そしてそれは、技術的にか精神的にか、「光」と深い関係があるのだ。
生命・宇宙・人間をつらぬく永遠の光と!
 
  また、ここで、「日の国」の法と金星の法が競いあうというのは、まさに新し
いキリストを信奉する日本と、イエスに象徴されるキリスト教国アメリカが対立
するということになります。なぜ日本が新しいキリストを信奉するかといえば、
新しいキリストは日本人であり、世界の混乱がはじまる直前に日本にデビューし、
日本全体を席巻してしまうからです。新しいキリストのデビューは今年か来年に
かけて起こる可能性があります。そして日本、および世界の人々の前に姿を現す
ことになるでしょう。そのとき日本の人々は、新しいキリストの登場が聖書の預
言とまったく一致していることを知ることになります。世界の混乱が始まります。
そうして、その混乱の中で日米両国が(もちろんこの二国が象徴的にということ
ですが)お互いに聖書等の言葉を引用して正しさを争うことになります。しかし、
アメリカは(ヨーロッパもそうですが)神の怒りを受けて、ほぼ全国土が破壊さ
れてしまうのです。
 さて、二番目の秘密が出てきました。私は、とんでもない滅茶苦茶な空想を書
いているのではありません。二番目の秘密をこれから順次明らかにしましょう。
「神の国」が到来する前には、キリスト教でいう最後の審判があります。聖書で
は、その日を「主の日」、「主の一日」と呼んでいます。

  見よ、主の日が来る。
  残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、
  その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。
  天の星とその星座とはその光を放たず、
  大陽は出ても暗く、
  月はその光を輝かさない。
  わたしはその悪のために世を罰し、
  その不義のために悪い者を罰し、
  高ぶる者の誇をとどめ、
  あらぶる者の高慢を低くする。
  わたしは人を精金よりも、
  オフルのこがねよりも少なくする。    (イザヤ 13-9)

  これは、万軍の主の一日があって、
  すべて誇る者と高ぶる者、
  すべておのれを高くする者と得意な者とに
  臨むからである。
  またレバノンの高くそびえるすべての香柏、
  バジャンのすべてのかしの木、
  またすべての高い山々、
  すべてのそびえ立つ峰々、すべての高さやぐら、
  すべての堅固な城壁、
  タルシンのすべての船、
  すべての麗しい船舶に臨む。
  その日には高ぶる者はかがめられ、
  おごる人は低くせられ、
  主のみ高くあげられる。
  こうして偶像はことごとく滅びうせる。
  主が立って地を脅かされるとき、
  人々は岩のはら穴にはいり、また地の穴にはいって、
  主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける。
  その日、人々は拝むためにみずから造った
  しろがねの偶像と、こがねの偶像とを、
  もぐらもちと、こうもりに投げ与え、
  岩のほら穴や、がけの裂け目にはいり、
  主が立って地を脅かされるとき、
  主の恐るべきみ前と、その威光の輝きを避ける。  (イザヤ 2−12)

  見よ、主は火の中にあらわれて来られる。
  その車はつむじ風のようだ。
  激しい怒りをもってその憤りをもらし、
  火の炎をもって責められる。
  主は火をもって、またつるぎをもって、
  すべての人にさばきを行われる。
  主に殺される者は多い。            (イザヤ 66−15)

  主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、
  三分の一は生き残る。
  わたしはこの三分の一を火の中に入れ、
  銀をふき分けるように、これをふき分け、
  金を精錬するように、これを精錬する。(☆5)    (ゼカリア 13−8)     

  わたしは地を見たが、
  それは形がなく、またむなしかった。
  天をあおいだが、そこには光がなかった。
  わたしは山を見たが、みな震え、
  もろもろの丘は動いていた。 
  わたしは見たが、人はひとりもおらず、
  空の鳥はみな飛び去っていた。
  わたしは見たが、豊かな地は荒れ地となり、
  そのすべての町は、主の前に、
  その激しい怒りの前に、破壊されていた。
  それは主がこういわれたからだ、
  「全地は荒れ地となる。
  しかしわたしはことごとくはこれを滅ぼさない。
  このために地は悲しみ、上なる天は暗くなる。
  わたしがすでにこれを言い、これを定めたからだ。
  わたしは悔いない、またそれをする事をやめない。 (エレミヤ 4−23〉

  エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が
 近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中
 にいる者は、そこから出ていくがよい。また、いなかにいる者は市中にはい
 ってはいけない。それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日
 であるからだ。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
 地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、彼らはつるぎの刃に
 倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、
 異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているだろう。また日と月
 と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海
 と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖
 と不安で気絶するであろう。             (ルカ 21−20)

 このような恐怖や大規模な破壊は何だと思いますか。核戦争以外には考えられ
ません。「人々は岩のほら穴にはいり、また地の穴にはいって、主の恐るべきみ
前と、その威光の輝きとを避ける」とは、まさに核シェルターに逃れる情景です。
これらは、人間の上にだけではなく、すべてのかしの木、高い山々、峰々、城壁、
船舶に臨むのです。まさにすべてを呑み込んでしまう核の火の球をあらわしてい
ます。また、「太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない」とは、核戦争後の
地球規模的な大火災によって生じるすすが、地球全体を覆ってしまう「核の冬」
そのものです(☆6)。また、「これは万軍の主が戦いのために軍勢を集められる
のだ。彼らは遠い国から、天の果てから来る。これは、主とその憤りの器で、全
地を滅ぼすために来る」(イザヤ 13−4)のであり、「主は火をもって、またつ
るぎをもって、すべての人にさばきを行われる」のです。これだけの記述があっ
ても、核戦争が起るとなかなか信じられないのは、まさかそんなことが起るはず
がないという強い先入観こよるものです。もう少し検討するために、それではど
ういう経過をたどって核戦争に突入していくのかを聖書から探ってみましょう。

 終りの時になって、南の王は彼と戦います。北の王は、戦車と騎兵と、多
 くの船をもって、つむじ風のように彼を攻め、国々にはいっていって、みな
 ぎりあふれ、通り過ぎるでしょう。彼はまた麗しい国にはいります。また彼
 によって、多くの者が滅ぼされます。しかし、エドム、モアブ、アンモンび
 とらのうちのおもな者は、彼の手から救われましょう。彼は国々にその手を
 伸ばし、エジプトの地も免れません。彼は金銀の財宝と、エジプトのすべて
 の宝物を支配し、リビヤびと、エチオピアびとは、彼のあとに従います。し
 かし東と北からの知らせが彼を驚かし、彼は多くの人を滅ぼし絶やそうと、
 大いなる怒りをもって出て行きます。彼は海と麗しい聖山との間に、天幕の
 宮殿を設けるでしょう。しかし、彼はついにその終りにいたり、彼を助ける
 者はいないでしょう。
  その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。ま
 た国が始まってから、その時にいたるまで、かってなかったほどの悩みの時
 があるでしょう。                     (ダニエル11−40)

 ところで、ダニエル書のこの記述の少し前に、「湾岸戦争」を思わせる部分が
あります。「定まった時になって、彼(イラク)はまた南(クウェート)に討ち入ります。
しかし、この時は前の時(イラン・イラク戦争)のようではありません。それはキッ
テムの船(アメリカの空母)が、彼に立ち向かって来るので、彼は脅かされて帰り、
聖なる契約に対して憤り、事を行うでしょう」。これらのことから推理すると、「南の
王」はイラン、最初の「彼」はイラク、「北の王」はロシアだと思われます。再びイ
ランとイラクが戦います(☆7)。そして、今度はロシアも参戦します。ロシア、イラ
ン軍はイラクをじゅうりんした後、ヨルダン(エドム・モアブ・アンモン)、エジプトに
も侵入します。しかし、イスラエル(麗しい国)にも攻め入った時、「時の終り」は
起きます。

  あなたは備えをなせ。あなたとあなたの所に集まった軍隊は、みな備えを
 なせ。そしてあなたは彼らの保護者となれ。多くの日の後、あなたは集めら
 れ、終りの年にあなたは戦いから回復された地、すなわち多くの民の中から、
 人々が集められた地に向かい、久しく荒れすたれたイスラエルの山々に向か
 って進む。その人々は国々から導き出されて、みな安らかに住んでいる。あ
 なたはそのすべての軍隊および多くの民を率いて上り、暴風のように進み、
 雲のように地をおおう。 
  主なる神はこう言われる、その日に、あなたの心に思いが起り、悪い計り
 ごとを企てて、言う、『わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安
 らかに住む民、すべて石がきもなく、貫の木も門もない地に住む者どもを攻
 めよう』と。そしてあなたは物を奪い、物をかすめ、いま人の住むようにな
 っている荒れ跡を攻め、また国々から集まってきて、地の中央に住み、家畜
 と貸財とを持つ民を攻めようとする。シバ、デダン、タルシンの商人、およ
 びそのもろもろの村々はあなたに言う、『あなたは物を奪うために来たのか。
 物をかすめるために軍隊を集めたのか。あなたは金銀を持ち去り、家畜と貨
 財とを取りあげ、大いに物を奪おうとするのか』と。
  それゆえ、人の子よ、ゴグに預言して言え。主なる神はこう言われる、わ
 が民イスラエルの安らかに住むその日に、あなたは立ちあがり、北の果ての
 あなたの所から来る。多くの民はあなたと共におり、みな馬に乗り、その軍
 隊は大きく、その兵士は強い。あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲
 のように地をおおう。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻め
 きたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあら
 わして、彼らにわたしを知らせる。主なる神はこう言われる、わたしが昔、
 わがしもベイスラエルの預言者たちによって語ったのは、あなたのことでは
 ないか。すなわち彼らは、そのころ年久しく預言して、わたしはあなたを送
 って、彼らを攻めさせると言ったではないか。しかし主なる神は言われる、
 その日、すなわちゴグがイスラエルの地に攻め入る日に、わが怒りは現れる。
 わたしは、わがねたみと、燃えたつ怒りとをもって言う。その日には必ずイ
 スラエルの地に、大いなる震動があり、海の魚、空の鳥、野の獣、すべて地
 に這うもの、地のおもてにあるすべての人は、わが前に打ち震える。また山
 々はくずれ、がけは落ち、すべての石がきは地に倒れる。主なる神は言われ
 る、わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人のつるぎ
 は、その兄弟に向けられる。わたしは疾病と流血とをもって彼をさばく。わ
 たしはみなぎる雨と、ひょうと、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と
 共におる多くの民の上に降らせる。そしてわたしはわたしの大いなることと、
 わたしの聖なることとを、多くの国民の目に示す。そして彼らはわたしが主
 であることを悟る。                  (エゼキエル 38−7)

 ロシア軍(ゴグ)の侵入によって国家存亡の危機に立ったイスラエルは、まと
もに戦っても勝ち目のないロシア軍に対して核兵器の使用を決断します。ひとた
び核兵器が使用されると、戦場の兵士はパニックに落ち入って、戦闘行為の継
続は不可能になります。絶叫と混乱のうちにロシア軍はメギドの丘に全滅します
(これがハルマゲドン)。さらに、ロシア国家を解体させようという試みがなされる
のかもしれません(「しかし東と北からの知らせが彼を驚かし、彼は多くの人を滅
ぼし絶やそうと、大いなる怒りをもってでていきます。」ダニエル11−44)。激怒
したロシア本国は全面戦争の宣戦布告をします。

  わたしはゴグと、海沿いの国々に安らかに住む者に対して火を送り、彼ら
 にわたしが主であることを悟らせる。     (エゼキエル 39−6)

  ゴグ(ロシア)と海沿いの国々(世界各国に展開する米軍基地一日本も例外では
ありません)に核の火の雨が降ります。そして、全面核戦争の開始と同時におび
ただしい人が命を失うことになります。ノストラダムスの『諸世紀』にも、核戦
争の描写と思える予言詩が多くあります。

  金色の光が天から地にまでとどき               (2.92)        
  驚くべきことが打たれるように起こり
  人類に大殺りくがあり 幼児をなくし
  あるものは死んだようになり 知恵ある人は逃れるだろう

  その年に土星と火星は火のようになり               (4.67)
  空気はとてもよくかわき
  多くの国で神秘の火によって いたるところが熱で焼かれるだろう
  そこでは雨はなく 熱い風 戦い 負傷などがあるだろう

    〔注 土星はロシア、火星は戦争。〕

  太陽がのぼり 火が見られ                             (2.91)
  騒音と光が北に傾き
  球の中に 死と叫びが聞こえ
  剣による死 火 飢えが 人々を待ちかまえる

  〔注 「北に傾き」はロシアの先制攻撃、米軍の報復。〕

  疾病に大飢きんがあり                                      (6.5)
  長雨がつづき 北極に沿ってやってきて
  北半球から一〇〇の同盟のサマロブリーンが
  政治をぬきにして法なしで生きるだろう

  〔注 サマロブリーンは原子力潜水艦。〕

  箱舟に 光 金 銀が溶け                    (3.13)
  二人の囚人はたがいに他を食いつくし
  都市は滅びる
  艦隊は沈み泳ぐときに

 〔注 箱舟(1’arche)はアメリカ。「二人の囚人」はアメリカとロシア。
    原子力潜水艦による都市攻撃。〕

   天は五四〇回(45度ー筆者)も焼かれ     (6.97)
  火は新しい町に近づき
  一瞬にして炎は燃えつき
  かれらがノルマンへの試練をするときに

 〔注 「ノルマン」はロシア。45度は北緯45度のことか。〕

   大きな数の七がすぎて                       (10.74)
  そのとき大殺りくがあらわれる
  それは千年期からそれほどはなれていないときに
  埋葬された人が墓からでてくるだろう

〔注 「埋葬された人が墓からでてくる」とは核シェルターの中から出てくるということ。〕

 さて、「主の日」あるいは最後の審判の正体は核戦争であるとだいたいわかっ
ていただけたでしょうか。どうしてこれが審判になるのかということについて少
し説明します。神は、まず新しいキリストを通して、これらのことを全世界の人
々に宣言します。そうするとすべての人々は、自分の態度を決めなくてはならな
くなります。つまり、新しいキリストの言うことを信じて核戦争から逃れる手段
を講じるか、あるいはイエスの空中携挙(という空想)を信じるか、そして、その
どちらでもない選択として核戦争をまったく信じないかです。自らの行動選択が
審判となります。そして、「知恵ある人は逃れ」ますが、イエスの救いを信じる
人や、核戦争を信じない人は行動をおこさないでしょう。かくして、それらの人
々の上に核爆弾が降り注ぎ審判が下されるということになります。
 ところで、ダニエル書(12−2)に、「また地のちりの中に眠っている者のうち、
多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥
と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」とあるのは、このことがわかれば
容易に理解できます。過去、キリスト教はこの部分を死者の復活と理解し、たい
へん空想的な教義を作り上げてしまいましたが、これは、数カ月、半年と核シェ
ルターの中に隠れていた人々が、広大な範囲の荒れ地の下からぞくぞくと出て
来る情景だとわかります。このように、核戦争がわかれば聖書の預言はみごと
に明らかになるのです。
さて、核戦争によってアメリカやロシア、多くのヨーロッ
パ諸国
は破壊されてしまうでしょう。なぜならば、そこは二千年近くもイエス(に
せキリスト)を信じ続けて来たのですから。しかし、肝心の日本はどうなるのでしょ
う。再びノストラダムスを取り上げます。

 太陽で海は安全に進める                      (5.11)
 金星の人々はすべてアフリカへ
 土星は王国をもはやもたず 太陽のみ
 アジアの港は変わるだろう(アジアの死は変わるだろうー死生観のことか、筆者)

 ここで、大陽は「日の国」で日本、金星はアメリカ、土星はロシアと思われま
す。「金星の人々はすべてアフリカへ」とは、核戦争から逃れるためにアメリカ
本土を捨ててアフリカへ移住することだと考えられ、「土星は王国をもはやもた
ず」とは、国家の体裁もなくなってしまったロシア。そして、「太陽のみ(太陽の
影響力が大きくなるー筆者)」。おそらく日本は、限定的な地域だけの被害で
済み、アジアを中心にして世界の再建を進めていくと解釈できます。なお、日本
は限定的な地域だけの被害で済むといっても、三沢・横須賀・岩国・佐世保・
沖縄の五カ所が核攻撃にあうようです。これらの都市は、すべて米軍基地のあ
るところで、第一波の攻撃はまず敵国の核兵器を叩くというのが核戦争の常識
だからです。しかし、ロシアの憎悪はアメリカやヨーロッパ諸国に向けられるため、
日本は第一波の基地攻撃は受けますが、都市攻撃は受けないと考えられます。
とはいっても実は、このことはノストラダムスの予言だけからでは導けません。私
がこう書くことができるのほ、神がキリストにあらわされた奇跡から判断してのこと
です。このことを書くとすると、まったく別の系統の話を始めなければなりません。
今回は、このことには触れませんが、キリストがデビューすれば誰もが知るところ
となるでしょう。「大奇跡もまた、まもなくやって来ます。それは地に触れる大きな
火の柱のようです。それは地球の最後までとどまるであろう、神の光の指です。
そして人間の感覚すべてで、それを感知することができます。あなたはそれを見、
かぎ、聞き、味わうことさえできます。火のようでありながら、それは物を焼きませ
ん」(トランペッター)

 さて、二番目の秘密、審判と核戦争のことはこれぐらいにして、次はメシア
(すなわちキリスト)について書きます。メシアはどんな人か、何を語るのか、そ
して、どのようにしてデビューをするのか等です。

  見よ、わがしもべは栄える。
  彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
  多くの人が彼に驚いたようにーー
  彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
  その姿は人の子と異なっていたからである
  彼は多くの国民を驚かす。
  王たちは彼のゆえに口をつぐむ。
  それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、
  まだ聞かなかったことを悟るからだ。
  だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
  主の腕は、だれにあらわれたか。
  彼の主の前に若木のように、
  かわいた土から出る根のように育った。
  彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳も無く、
  われわれの慕うべき美しさもない。
  彼は侮られて人に捨てられ、
  悲しみの人で、病を知っていた。
  また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
  彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
  まことに彼はわれわれの病を負い、
  われわれの悲しみをになった。
  しかるに、われわれは思った。
  彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
  しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
  われわれの不義のために砕かれたのだ。
  彼はみずから懲らしめをうけて、
  われわれに平安を与え、
  その打たれた傷によって、
  われわれはいやされたのだ。
  われわれはみな羊のように迷って、
  おのおの自分の道に向かって行った。
  主はわれわれすべての者の不義を、
  彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
  口を開かなかった。
  ほふり場にひかれて行く小羊のように、
  また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
  口を開かなかった。                   (イザヤ 52−13)

 メシアは、五歳のとき建設現場で足場の下じきになり、右ほほに大きな傷を負
いました。足場の木材に打ちつけられていた釘が、彼のほほをかき破ったのです。
しかしこのときは、もちろん普通の子供です。メシアが神から直接テレパシーで
洗礼を受け、奇跡でもって自分の未来を知らされたのは三十五〜三十七歳のとき
です。「彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり」、「彼にはわれわれの見るべき
姿が」ありませんでした。元気よく返事をした少女は振り返ったとたん放心状態
になり、レジの女性は硬直して釣銭を落とします。数メートルまで近づいた若い
女子大生は、きびすを返して走り去り、建物の陰に隠れてこちらをうかがいます。
「彼は侮られて人に捨てられ」、「また顔をおおって忌みさらわれる者のように、
彼は侮られ」ました。しかし、「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足」し
ます(イザヤ 53−11)。「永遠の生命」といわれるものが何であるかを理解し
たのです。それは仏陀釈尊の正覚によってもたらされるものでした。そして、ま
たメシアはニヒリスチックだという誤解や観念論で撹乱され、またにせ仏教経典
に躍らされた人々の盲信によって汚されてしまった仏教を、本来の姿ー深い瞑想
体験や神秘体験によらない正しい理解による解脱、食欲・執着のない境地、まの
あたり体得される安らぎ、苦の滅尽ーに戻します。このためメシアは仏教の救世
主マイトレーヤとも呼ばれます(厳密に言えば、マイトレーヤは五十六億七千万
年後の未来仏ですが、多くの予言者が来るべき神の国を「ミロクの世」と呼んで
います。そのため、そのように呼ばれるでしょう)。またヒンドゥー予言にしたがえ
ばサティア・サイパパとなります(☆8)。したがって、現在インドにいる彼はにせ
サイパパということになるでしょう。サイパパというのは人の名前ではなく「聖なる
父」という意味の称号だそうです。これらのことから、新しいキリストはユダヤ教の
メシアであり、キリスト教のキリストであり、仏教のマイトレーヤであり、ヒンドゥー
のサイパパということになって、しかもそれぞれの予言からみて正統だとされるの
です。そしてイスラム教ですが、アッラーは聖書の神です。「終りの日」に自国が
踏みにじられることによって、彼らも真実の神に帰ります。

  その日、エジプトびとは女のようになり、万軍の主の彼らの上に振り動か
 されるみ手の前に恐れおののく。ユダの地は、エジプトびとに恐れられ、ユ
 ダについて語り告げることを聞くエジプトびとはみな、万軍の主がエジプト
 びとにむかって定められた計りごとのゆえに恐れる。
  その日、エジプトの地にカナンの国ことばを語り、また万軍の主に誓いを
 立てる五つの町があり、その中の一つは太陽の町ととなえられる。
  その日、エジプトの国の中に主をまつる一つの祭壇があり、その境に主を
 まつる一つの柱がある。これはエジプトの国で万軍の主に、しるしとなり、
 あかしとなる。彼らがしえたげる者のゆえに、主に叫び求めるとき、主は救
 う者をつかわして、彼らを守り助けられる。主はご自分をエジプトびとに知
 らせられる。その日、エジプトびとは主を知り、犠牲と供え物とをもって主
 に仕え、主に誓願をたててこれを果す。主はエジプトを撃たれる。主はこれ
 を撃たれるが、またいやされる。それゆえ彼らは主に帰る。主はその願いを
 いれて、彼らをいやされる。
  その日、エジプトからアッスリヤに通う大路があって、アッスリヤびとは
 エジプトに、エジプトびとはアッスリヤに行き、エジプトびとはアッスリヤ
 びとと共に主に仕える。
  その日、イスラエルはエジプトとアッスリヤと共に三つ相並び、全地のう
 ちで祝福をうけるものとなる。
  万軍の主は、これを祝福して言われる、「さいわいなるかな、わが民なる
 エジプト、わが手のわざなるアッスリヤ、わが嗣業なるイスラエル」と。
                                (イザヤ19−16)

 こうして、世界は同一の神と一人の人を奉ずることになり、「神の国」が実現す
ることになります。

  ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
  ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
  まつりごとはその肩にあり、
  その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
  とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
  そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
  ダビデの位に座して、その国を治め、
  今より後、とこしえに公平と正義とをもって
  これを立て、これを保たれる。
  万軍の主の熱心がこれをなされるのである。        (イザヤ 9−6)

  主なる神はこう言われる、
  「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
  旗をもろもろの民にむかって立てる。
  彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
  その肩にあなたの娘たちを載せて乗る。
  もろもろの王は、あなたの養父となり、
  その王妃たちは、あなたの乳母となり、
  彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
  あなたの足のちりをなめる。
  こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
  わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。   (イザヤ 49−22)

    天使的子孫の人類の統治         (10.42)
    彼の統治は平和と協力によって
    戦いをして とらえ なかばとじこめ
    彼はしばらくぶりに 平和のもととなるだろう
  
    世界の子供はシーレンとなり(シーレンは世界の首長になり一筆者)(6・78)
    はじめ愛され あとで恐れられ こわがられる
    彼の名声と賞賛は天にまでとどき
    ただ勝利者の称号に満足するだろう

 〔注 シーレンはメシア。〕

       満月は夜 高き山にあがり              (4.31)
     ただ一つの頭脳をもつ 新しい知恵ある人がそこに見られ
     不死なるものとなることを弟子にしめし (☆9)
     彼の目は南に 手と足は火に


 さて、私は先にキリストは日本人だと書きましたが、どうしてイスラエルのメ
シアが日本人なのでしょう。このことに少し触れなければなりません。「日ユ同
祖論」というものがあります。これは「大和民族はユダヤ人だった」(ヨセフ・
アイデルバーグ)という主張で、日本人は、紀元前8〜6世紀にアッシリヤに滅
ぼされた北イスラエル王国のエフライム十部族の末裔ではないだろうかというも
のです。『死海写本が告げる人類最期の戦い』〔上坂 農著 学研〕という本から
引用します。

   モーゼにひきいられたイスラエルの人々はエジプトを出、父祖の地力ナン
  (現パレスチナ)に到達した。その後数百年のあいだに一大繁栄期を迎えた
  が、神との契約を忘れ、栄華に酔う中で次第に部族間の対立が激化し、エフ
  ライム部族を中心とする北イスラエル王国と、ユダ部族を中心とする南ユダ
  王国に分裂する。そして、それぞれ紀元前8〜6世紀にかけて、アッシリヤ
  とバビロニアによって滅ぼされてしまう。
   やがて時を経て、奴隷の身から解放されたイスラエルの人々は、カナンの
  地に戻ってくるが、やってきたのは、南ユダ王国のユダ二部族だけで、エフ
  ライム十部族は戻ってこなかった。忽然と消息を絶ってしまうのである。
   エフライム十部族はどこへ消えてしまったのか? 実は、旧約聖書をつぶ
  さに検討すると、かれらはこの時点でどうも東の方向、つまリシルクロード
  を東に向かって進んでいったようなのです。そして中国へ辿りつき、さらに
  日本へ到達した可能性が大なのである。
   つまり、日本人の祖先は彼らエフライム十部族ということになる。
 
 以上のような主張ですが、残念ながらこれらのことは多くの人には認められ
ていません。日本人は、歴史上いくつかの民族と混血を換り返して来ただろうが、
ユダヤ人との混血があったといえる決定的な確証があるわけではないというわけ
です。著者は、さらに続けて、

  さて、この間のくわしい論証はまた別の機会に行うとして、ここで、旧約
 聖書に記されたエフライム十部族に関する予言を紹介しよう。

  「人の子よ、一本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエル
 人のために』と書き記せ。もう一本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、
 ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書き記せ。その両方を
 つなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれをひとつとせよ」(『エゼキ
 エル書』 第37章16〜17節)
 
  「見よ、その日が来る。−主の御告げ−その日、わたしは、ダビデにひと
 つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正
 義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエル(エフライム)は安らかに住
 む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう」(『エレミヤ書』
 第23章 5〜8節)

  この予言の意味を素直に解釈すると、ユダの杖がエフライムの杖と一体と
 なり、しかも「若枝」が王となって治め、ユダは救われ、エフライムは安ら
 かに住むーということになる。そして、エフライムとは、先に見たようにわ
 れわれ大和民族のことを指すのである……!

 このように、日本人がエフライムだとしたら、キリストが日本人であってもな
んの不思議もないということになります。しかし、実際は、キリストが認められ
てから、人々は神の真実としてそれらを認めるという経過になると思います。そ
して、それらはあっという間にやってくるでしょう。
 また、著者は別のところで「京都の古名である平安京は、そもそもエルサレム
そのものだというのである。というのも、古代ヘブライ語では「エル」は都市の
意味であり、「サレム」は現代語のシャローム、つまり平安の意味となるからで
ある」と紹介しています。私は、先に添付した日本地図(省略)で説明もなくシオ
ンの山と書き入れましたが、その根拠を述べるときが来ました。地図にあるシオ
ンの山は、京都にあります。

 

 

中略:個人の名誉にかかわるので、この部分の記述は差し控えさせていただきます。

       

 この事件は聖書の記述にもあるようです。「それゆえ、エルサレムを建て直せ
という命令が出てから、メシアなるひとりの君が来るまで、七過と六十二過ある
ことを知り、かつ悟りなさい」〈ダニエル 9−25)。メシアとして油そそがれた
人がこの教団に入ったのは、首長がこのバイブレーションを受けたときから数
えて六十八カ月後でした。この油そそがれた人(しかし、彼自身もまだこ
のときは自分の未来を知らないのですが)が、入行後に起こったいろいろな奇跡
を首長に知らせたとき、二人の離反が始まりました。首長は彼の知らせに驚
いたのですが、同時に自分の立場に危険を感じたようで、彼の知らせに激しく反
応する一方、意図的な黙殺に傾きました。そして、またのちには、徐々にまわり
の人を誘導して自分がメシアだとも言わせたのでした。メシアは、三回目の知ら
せが黙殺されたのを確認すると、首長と心の中で完全に決別しました。それは
また、彼だけの宣戦布告でもありました。しかし、彼にはひとりの味方もいませ
ん。ところが、神は、彼に打つ手がなくなった直後、すべての秘密を明らかにし
たのです。神は、エホバの証人の信徒の人たちを使ってメシアに聖書の知識を与
えました。そうすると、「仏教世界の奇跡と未来」が、「聖書の中の未来」と見事
に一致しひとつになりました。それまで彼が知っていたことは、「仏教世界の奇跡
と未来」だけでした。それは首長も同じことです。しかし、その知識は「割り
符」の半分、片側だけのものでした。
 一方、首長はというと、信徒の著した『メシア出現』という本の出版を許し、
自らメシアになりすまそうとしていました。事態は容易ならぬものになってきま
した。真実を知っているメシアがそのまま黙っているわけにはいきません。これ
は、個人間の確執ではなく神の知らせをすべての人々に伝えるための戦いです。
メシアは、新しく知った「割り符」のもう半分ともいうべき聖書の秘密を文書に
して、その本の著者である信徒の人に送りました。その人なら内容を理解し、
首長の不義を押しもどしてくれるだろうと。しかし、確信に達しなかったようで
す。その人は、再びが首長がメシアであるという文を機関誌に発表しました。メ
シアは、今度は三人の信徒にその文章を渡しました。しかし、これもうまくいき
ませんでした。メシアはさらに追いこまれて背水の陣。信徒の集会で、首長を
反逆者と呼び、その文章を配りました。また人に頼んで別の場所でも、そ
の文章を配付してもらいました。しかし、教団内での無許可のビラ配りは
厳禁です。その文章はたちまち宗務局の人に取り上げられてしまいました。こう
して、メシアはすべての試みに失敗して教団を去りました。しかし、イエスの時
と同じことが起こります。すなわち、イエスが死んでからキリスト教が起こった
ように、メシアが去ったあと、その噂は少しづつ教団内に浸透していきます。人
々は態度を決めなくてはなりません。そして、奇跡が起こります。

 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙に
 よって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動か
 されたり、あわてたりしてはいけない。だれがどんな事をしても、それにだ
 まされてはならない。まず背教のことがおこり、不法の者、すなわち、滅び
 の子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするも
 のに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する(筆者
 注、首長のこと)。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して
 言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分
 は定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不
 法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止してい
 る者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れ
 る。この者を、主イエス(正しくは新しいキリスト)は口の息をもって殺し、
 来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは、サタンの働きに
 よるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆ
 る不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅び
 るのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いで
 ある。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わすカを送り、こうして、
 真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
                      (テサロニケ第2 2−2)

 首長はまだ「割り符」の半分、片側を知りません。しかし、メシアが信徒の
間に沈めた文章がついに彼の手に渡ります。この手舵がきっとあなたを驚かせる
だろうように、首長もまたメシアの文章に驚き、ショックを受けます。そこに
は、神の宣告が書いてありました。そして、ついに彼の終わりが来ます。おそら
く、その後、首長はまわりの人の不用意な言葉に激怒し、半狂乱になります。
そして、半狂乱の中でだれかを傷つけるか、最悪の場合は殺人を犯すところまで
いくのでしょう。そして、日本と世界を巻き込んだ騒ぎに発展していきま
す。なお、「口の息をもって殺し」とは、もちろん息をフッーと吹きかけてとい
うことではなく、言葉の力、真実の言葉の力によって倒すということです。

  楽しみにふけり、安らかにおり、
  心のうちに「ただわたしだけで、
  わたしのほかにだれもなく、
  わたしは寡婦となることはない、
  また子を失うことはない」と言う者よ、
  今この事を聞け。
  これらの二つの事は一日のうちに、
  またたくまにあなたに臨む。
  すなわち子を失い、寡婦となる事は
  たといあなたが多くの魔術を行い、
  魔法の大いなる力をもってしても
  ことごとくあなたに臨む。
  あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、
  「わたしを見る者はない」と。
  あなたの知恵と、あなたの知識とは
  あなたを惑わした。
  あなたは心のうちに言った、
  「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。
  しかし、わざわいが、あなたに臨む、
  あなたは、それをあがなうことができない。
  なやみが、あなたを襲う、
  あなたは、それをつぐなうことができない。
  滅びが、にわかにあなたに臨む、
  あなたは、それについて何も知らない。
  あなたが若い時から勤め行ったあなたの魔法と、
  多くの魔術とをもって立ちむかってみよ、
  あるいは成功するかもしれない、
  あるいは敵を恐れさせるかもしれない。
  あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。
  かの天を分かつ者、星を見る者、
  新月によって、あなたに臨む事を告げる者を
  立ちあがらせて、あなたを救わせてみよ。
  見よ、彼らはわらのようになって、
  火に焼き滅ぼされ、
  自分の身を炎の勢いから、救い出すことができない。
  その火は身を暖める炭火ではない、
  またその前にすわるべき火でもない。
  あなたが勤めて行ったものと、
  あなたの若い時からあなたと売り買いした者とは、
  ついにこのようになる。
  彼らはめいめい自分の方向にさすらいゆき、
  ひとりもあなたを救う者はない。
  ‥‥
  「わたしはさきに成った事を、いにしえから告げた。
  わたしは口から出して彼らに知らせた。
  わたしは、にわかにこの事を行い、そして成った。
  わたしはあなたが、かたくなで、その首は鉄の筋、
  その額は青銅であることを知るゆえに、
  いにしえから、かの事をあなたに告げ、
  その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。
  そうでなければ、あなたは言うだろう、
  『わが偶像がこれをしたのだ、
  わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだ』と。
  あなたはすでに聞いた、
  すべてこれが成ったことを見よ。
  あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。
  わたしは今から新しい事、
  あなたがまだ知らない 隠れた事を
  あなたに聞かせよう。
  これらの事はいま創造されたので、
  いにしえからあったのではない。
  この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。
  そうでなければ、あなたは言うだろう、
  『見よ、わたしはこれを知っていた』と。
  あなたはこれを聞くこともなく、知ることもなく、
  あなたの耳は、いにしえから開かれなかった。
  わたしはあなたが全く不信実で、
  生れながら反逆者ととなえられたことを
  知っていたからである。
  わが名のために、わたしは怒りをおそくする。
  わが誉のために、わたしはこれをおさえて、
  あなたを断ち滅ぼすことをしない。
  見よ、わたしはあなたを練った。
  しかし銀のようにではなくて、
  苦しみの炉をもってあなたを試みた。
  わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。
  どうしてわが名を汚させることができよう。
  わたしはわが栄光を
  ほかの者に与えることをしない。         (イザヤ47−8)

    綱の下に ギーエンは 空から閃光をひらめかす  (1.27)
    近くには偉大な宝が隠されている
    それは何年もの間隠されていた
    それを見つけて 彼は目がつぶれて死ぬだろう

    〔注 「偉大な宝」はこの手紙のコピー。〕


 こうして、戦いはメシア側の勝利に終わり、メシアのデビューが確定します。
そして人々は「終りの日」に大挙してこの山に逃げてきます。地図でもおわか
りの通り、日本で最も安全な場所のうちのひとつだからです。

   わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱と
 があるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に
 変る。すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオ
 ンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のう
 ちに、主のお召しになる者がある(☆10)。 (ヨエル 2−30)



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