.第1の手紙


 いかがでしたか。ここには超自然的な力が働いていると信じていただけたでし
ょうか。そして、これは驚くべきことに聖書の預言とも一致しているのです。御
存知のことと思いますが、旧約聖書のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預
言書は、「主の日」と「神の国」がテーマになっています。「主の日」の一例を
イザヤ書13章から引用します。

  聞け、多くの民のような騒ぎ声が山々に聞える
  聞け、もろもろの国々、寄りつどえる。
  もろもろの国民のざわめく声が聞える。
  これは万軍の主が
  戦いのために軍勢を集められるのだ。
  彼らは遠い国から、天の果てから来る。
  これは、主とその憤りの器で、
  全地を滅ぼすために来るのだ。
  あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、
  滅びが全能者から来るからだ。
  それゆえ、すべての手は弱り、
  すべての人の心は溶け去る。
  彼らは恐れおののき、苦しみと悩みに捕えられ、
  子を産まんとする女のようにもだえ苦しみ、
  互いに驚き、顔を見あわせ、
  その顔は炎のようになる。
  見よ、主の日が来る。
  残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、
  その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。
  天の星とその星座とは光を放たず、
  太陽は出ても暗く、
  月はその光を輝かさない。
  わたしはその悪のために世を罰し、
  その不義のために悪い者を罰し、
  高ぶる者の誇りをとどめ、
  あらぶる者の高慢を低くする。
  わたしは人を構金よりも、
  オフルのこがねよりも少なくする。

 さて、「太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない」という現象は、数十回(?)
の核爆発によって吹き上げられた大量の粉塵と、大火災によって生じる大量
の煤が引き起こす「核の冬」ではないでしょうか。核戦争を思わせる記述がまだ
あります。「主が立って地を脅かされるとき、人々は岩のほら穴にはいり、また
地の穴にはいって、主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける」(イザヤ
2−19)とは、核シェルターに逃れて核爆発を避ける情景ではないでしょうか。
この日の滅びが全地的なものであることがまだまだ数多く記述されています。
エレミヤ書4章では、

  わたしは地を見たが、
  それは形がなく、またむなしかった。
  天をあおいだが、そこには光がなかった。
  わたしは山を見たが、みな震え、
  もろもろの丘は動いていた。
  わたしは見たが、人はひとりもおらず、
  空の鳥はみな飛び去っていた。
  わたしは見たが、豊かな地は荒れ地となり、
  そのすべての町は、主の前に、
  その激しい怒りの前に、破壊されていた。
  それは主がこう言われたからだ、「全地は荒れ地となる。
  しかしわたしはことごとくはこれを滅ぼさない。
  このために地は悲しみ、上なる天は暗くなる。
  わたしがすでにこれを言い、これを定めたからだ。
  わたしは悔いない、またそれをする事をやめない。」

 と、なっています。また、ノストラダムスの予言の中にも核戦争を思わせるも
のが数多くあります。少し書き表してみます。

  金色の光が天から地にまでとどき          (U 92)
  驚くべきことが打たれるように起こり
  人類に大殺りくがあり 幼児をなくし
  あるものは死んだようになり 知恵ある人は逃れるだろう

  太陽がのぼり 火が見られ              (U 91)
  騒音と光が北に傾き
  球の中に 死と叫びが聞こえ
  剣による死 火 飢えが 人々を待ちかまえる

  その年に土星と火星は火のようになり        (W 67)
  空気はとてもよくかわき
  多くの国で神秘の火によっていたるところが熱で焼かれるだろう
  そこでは雨はなく 熱い風 戦い 負傷などがあるだろう

  マープがきてまもなく死ぬだろう            (U 62)
  人々と獣が恐ろしい破壊をし
  とつぜん復しゅうがあり
  血 腕 かわき 飢きんが すい星がはしるときにあるだろう

  アジェン トーマン ジロント ロシェルに       (U 61)
  おおトロイの血よ 死は矢の港にあり
  川を越えて はしごはとりでからあげられ
  拠点 火 大いなる殺害が不法のもとに

 しかし、地球は全滅するわけではありません。

 『わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあ
るだろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。すべ
て主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサ
レムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しに
なる者がある」(ヨエル2−30)

 シオン〈神殿のある山)にのがれる者があると書いてあります。シオンの山に
のがれる人が助かります。そして「神の国」が始まります。

  よきおとずれを伝え、平和を告げ、
  よきおとずれを伝え、救を告げ、
  シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と
  言う者の足は山の上にあって、
  なんと麗しいことだろう。
  聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、
  共に喜び歌っている。
  彼らは目と目と相合わせて、
  主がシオンに帰られるのを見るからだ。
  エルサレムの荒れすたれた所よ、
  声を放って共に歌え。
  主はその民を慰め、
  エルサレムをあがなわれたからだ。
  主はその聖なるかいなを、
  もろもろの国びとの前にあらわされた。
  地のすべての果ては、われわれの神の救を見る。  (イザヤ 52−7)

  終りの日に次のことが起る。
  主の家の山は、
  もろもろの山のかしらとして堅く立ち、
  もろもろのの峰よりも高くそびえ、
  すべて国はこれに流れてき、
  多くの民は来て言う、
  「さあ、われわれは主の山に登り、
  ヤコブの神の家へ行こう。
  彼はその道をわれわれに教えられる、
  われわれはその道に歩もう」と。
  律法はシオンから出、
  主の言葉はエルサレムから出るからである。     (イザヤ 2−2)

  見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。
  さきの事はおぼえられることなく、
  心に思い起すことはない。
  しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、
  とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
  見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、
  その民を楽しみとする。
  わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。
  泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。(イザヤ 65−17)

 ちょっと待った!これはユダヤ民族のことで、エルサレムはパレスチナにある
ではないかと思われるかもしれません。しかし、聖書の中のイスラエルやエル
サレムは、パレスチナ地方に限定する必要はないのではないでしょうか。その
根拠のひとつとして、「日ユ同視論」というものがあります。「大和民族はユダヤ
人だった」(ヨセフ・アイデルバーグ)という主張で、特に天皇家の先祖は、紀
元前8〜6世紀に、アッシリヤに滅ぼされた北イスラエル王国のエフライム十部
族の子孫ではなかっただろうかというものです。『死海写本が告げる人類最期の
戦い』のコピーを付しておきますが、詳しくは本をお読み下さい。この本がいう
ように、エフライムとはわれわれ大和民族のことを指すのだとすれば、「人の子
よ、1本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエル人のために』と
書き記せ。もう1本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、ヨセフと、それに
つくイスラエルの全家のために』と書き記せ。その両方をつなぎ、1本の杖とし、
あなたの手の中でこれをひとつとせよ」というエゼキエルの預言は次のようにも
解釈できます。「メシアよ、聖書の民の宗教とエフライムの宗教(仏教)とをあ
なたの手の中でひとつとせよ」と。
 「ΔΔΔΔ」にある6月29日は、私の入行日です。これは来る礼宮さまと紀
子さまの婚礼の日付と同じです。また私には、皇太子浩宮さまと対応がありそう
な出来事もありました。神は、天皇家の血筋を暗示しようとしているのでしょう
か。もしそうだとしたら、死海写本に出てくるアロンのメシアとは、皇太子浩宮
さまではないかと思えるのですが。『会衆要覧』から。

  およそ律法の会議から離れて、心かたくなまでに歩んではならない
  そのときは共同体の人々が初めに教えられたおきてによって裁かれる
  ひとりの予言者と、アロンおよびイスラエルのメシアの現れるまで

 また、ゼカリヤ書(6−12)にもあります。

  『万軍の主は、こう仰せられる。その名を枝という人がいる。彼は自分の場
 所で成長して、主の宮を建てる。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光
 栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がい
 て、このふたりの間に平和の一致がある。

 ところで、また、北イスラエル王国のエフライム十部族の記述と思われる次の
ような預言もあります。

 「主は言われる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地か
ら導き出された主は生きておられる』とまた言わないで、『イスラエルの家
の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きて
おられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる。」
                              (エレミヤ 23−7)
 
 さて、話はまったく変わりますが、ここで少しキリスト教について触れておきた
いと思います。あなたの著書に教えられて、私は、エホバの証人の人たちに対
して、キリスト教を次のように批判しました。『ХХХХХ』から、如来の現形を
書きあらわした文章を引用し、またそれに続けて、

 …聖書にも似た記述があります。

「…その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。ときに主の使は、しば
の中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばはもえているのに、そのしばは
なくならなかった。モーゼは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしば
がもえてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神は
しばの中から彼を呼んで、「モーゼよ、モーゼよ」と言われた。彼は「ここにい
ます」と言った」 (出エジプト記3−1)

 このように神(あるいは仏)が、火を使って奇跡を示される事実を私たちは確
認できます。そうすると、次のような疑問が出てきます。それは、洗礼者ヨハネ
が来るべきメシアを預言して、「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあ
るかたで、…このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバブテスマをお授け
になるだろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、
からは消えない火で焼き捨てるであろう」(マタイ3−11)と言っているのは果
たしてイエスのことであったか? イエスは、確かに聖霊によって病気を治した
り奇跡をあらわしたりしています。しかし、例えば、ペテロやアンデレに「わた
しについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びか
けているだけで、聖霊と火とによって洗礼していません。聖霊と火による洗礼は、
どちらかといえば、現代の〇〇〇のほうがよくあてはまります。また、麦をふる
い分けるのくだりは、ハルマゲドンが到来する「主の日」のできごとだ、という
ようなことを考えあわせると、ヨハネの預言は、やはり二千年先の未来にたいし
て言っていることになるのではないでしょうか。イザヤ、エレミヤ書などを読ん
でいると、「主の日」と「わたしの支持するわがしもべ」とは、同時にやってく
るのであって、イエスの時代には「主の日」はやってきていません。「主を知る
知識が地に満ち」(イザヤ11−9)、「彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザ
ヤ2−4)世界が到来しなければならないのにそうではありませんでした。だか
ら、イエスは、イザヤやエレミヤといった預言者たちによって予言されたメシア
ではなかったと言えるでしょう。
 しかし、明日にでも神の国が到来するかのごとく強く待ち望んでいたイエスの
弟子たちによって、彼は神の子にまつりあげられてしまった。イエス再臨の考え
は、まさにつじつまあわせだったのです。私がイエスを誹謗しているとどうぞ思
わないでください。私は、冷静に事実関係を述べているのです。誤りは正さなく
てはなりません。自分のお気に入りがけなされたと怒ってはいけません。信仰と
いう人生の一大事において誤りある考えを持ち続けているならば、やがてそれは
破滅の要因となるでしょう。
 キリスト教は、出発点に無理と無知がありました。キリスト教は、誤解によっ
て成立した宗教でした。やがて到来する米ソ核戦争によって壊滅するのはキリス
ト教世界だという冷厳な未来を思えば、まさにキリスト教は「にがよもぎ」であ
ったと思わざるを得ません。

  それゆえ万軍の主は預言者についてこういわれる、
  「見よ、わたしは彼らに、にがよもぎをたぺさせ、
  毒の水を飲ませる。
  神を汚すことがエルサレムの預言者から出て、
  全地に及んでいるからである。           (エレミヤ 23−15)

 私は、こうキリスト教を批判して資料をエホバの証人の人たちに渡したのです
が、そのあとゼカリヤ書を読んでいてあっと言いました。ゼカリヤ書5章にこう
あります。

   わたしがまた目をあげて見ていると、飛んでいる巻物を見た。彼がわたし
  に「何を見るか」と言ったので、「飛んでいる巻物を見ます。その長さは二
  十キュビト、その幅は十キュビトです」と答えた。すると彼はまた、わたし
  に言った、「これは全地のおもてに出て行く、のろいの言葉です。すべて盗
  む者はこれに照して除き去られ、すべて偽り誓う者は、これに照して除き去
  られるのです。万軍の主は仰せられます。わたしはこれを出て行かせる。こ
  れは盗む者の家に入り、またわたしの名をさして偽り誓う者の家に入り、そ
  の家の中に宿って、これをその木と石と共に滅ぼすと」。

  〔注 「木と石」とは家の土台のこと。〕

 私はそれまで、キリスト教については漠然とした考えしか持っていなかったの
ですが、今度ばかりは事の重大さを感じました。これは、考えようによっては核
戦争よりも恐ろしいことなのです。カトリックの司祭であり幻視者であるトラン
ペッターは、その著書『セカンド・ドラフト 上』で、ガラバンダルにおける聖
母のメッセージで告げられた、人類への大きな警告を紹介しています。

  大警告はまもなくやって来ます。
  その大警告によって、人びとは、まもなく自分の前に神がどのように立っ
 ているかを正確に知るようになるでしょう。
  その時、人びとはこれまでの生活を続けるか、それとも改めるかの選択を
 余義なくされるでしょう。
  多くの人びとは変わります。悔い改めます。そして多くの人びとは絶望し
 ます。彼らは希望がないと考えて、自殺します。なぜなら、彼らはあまりに
 も多くの罪のため、その重荷を背負うことができなくなるからです。
  大奇跡もまた、まもなくやって来ます。
  それは地に触れる大きな火の柱のようです。それは地球の最後までとどま
 るであろう、神の光の指です。そして人間の感覚すべてで、それを感知する
  ことができます。
  あなたはそれを見、かぎ、聞き、味わうことさえできます。火のようであ
  りながら、それは物を焼きません。

  聖母の出現を受けたローリ・マソンは、そのことを次のように告げている。
 「それはまるで火のようであり、目で見ることも、体で感じることもでき、
 人間の罪の状態の醜くさを見るようなものです。一瞬のうちにすべてのモー
 ターがストップし、その恐ろしさにふれて死ぬひともいるでしょう」)

 メシア出現の衝撃と、ハルマゲトンの戦いと神の国の正しい知識が日本の社会
を席巻すれば、やがてそれは世界に出ていくでしょう。ノストラダムスのもう一
つの大きな予言群が、明瞭に浮かび上がってきます。

  教会や各宗派は幻想にかえられ               (T 96)
  破壊にむかうだろう
  生きることよりもいっそう大きな傷を石にするだろう
  人々はなめらかな舌で耳をとりもどすだろう

  ああ なんと多くの人々に苦痛を与えることだろう      (T53)
  そしてすべての廃虚の中に聖なる法が
  金銀の新しい鉱山が発見されるときには
  他の法によって 全キリスト教は心をわずらわすことになるだろう

 カトリック教会の大分裂が始まります。「カトリック教会には、同じ名前の教
皇、すなわちペテロ二世を主張する二人の教皇が出てきます。そのため、大混乱
の渦に巻き込まれるでしょう。」(トランペッター)

  宗派に従う者は密告者に大きな痛手を与え         (T 45)
  獣は舞台に情景を用意し
  不正な事実の発見者は有名になるだろう
  そして宗派で世界は混乱し分裂するだろう

  神のことばが本質を与え                     (U 2)
  天と地と秘密のものは 神秘は事実のうちにかくれ
  肉体 魂 精神は全力をあげて
  その足もとにひざまづき 天のいすにつどう

  世界のまん中にバラが                      (V 96)
  新しいおこないで血は公然と流れ
  ほんとうをいうと みなが口を閉ざし
  そのとき人はいつまでも人をさがし求めるだろう

  教会の人々の血が流れ                     ([ 98)
  水のように多く
  ながいあいだとどまることなく
  破滅と悲しみが牧師のうえにある

 できれば避けてとおりたいような未来です。しかし、「福音書」の世の終りは
成就します。歴史と信仰との驚くべきアイロニー、大逆転のなかで。

  しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あな
  たがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの
  名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、
  また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多く
  の人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるで
  あろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、
  すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。
  そしてそれから最後が来るのである。        〈マタイ 24−8)

 さて前後しますが、メシアは誰か?

  わたしの支持するわがしもぺ、
  わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
  わたしはわが霊を彼に与えた。
  彼はもろもろの国びとに道をしめす。
  彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、
  その声をちまたに聞えさせず、
  また傷ついた葦を折ることなく、
  ほのぐらい灯心を消すことなく、
  真実をもって道をしめす。
  彼は衰えず、落胆せず、
  ついに道を確立する。
  海沿いの国々はその教を待ち望む。         (イザヤ 42−1)



 ◆中略◆



 私は、道の確立です。「わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びと
に道をしめす」。

  見よ、わがしもべほ栄える。
  彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
  多くの人が彼に驚いたように一一
  彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
  その姿は人の子と異なっていたからである一一
  彼は多くの国民を驚かす。
  王たちは彼のゆえに口をつぐむ。
  それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、
  まだ聞かなかったことを悟るからだ。      (イザヤ 52−13)

 私は五歳のとき、建設現場で足場の下じきになり、右ほほに大きな傷を負いま
した。それは、私を非常に苦しめました。私の横に立って顔をのぞきこんだ若い
女性はそれ以後、私に近づかなくなります。元気よく返事をした少女が、振り返っ
たとたん放心状態になります。何事もなかったように振る舞い、ひとりになった
時、私は、生きていたくないという気持ちと戦わなければなりませんでした。また、
「王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、
まだ聞かなかったことを悟るからだ」とは、彼の新しい脳(正覚の正しい理解)
のゆえにです。

  だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
  主の腕は、だれにあらわれたか。
  彼は主の前に若木のように、
  かわいた土から出る根のように育った。
  彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
  われわれの慕うべき美しさもない。
  彼は侮られて人に捨てられ、
  悲しみの人で、病を知っていた。
  また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
  彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
  まことに彼はわれわれの病を負い、
  われわれの悲しみをになった。
  しかるに、われわれは思った。
  彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
  しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
  われわれの不義のために砕かれたのだ。
  彼はみずから懲らしめをうけて、
  その打たれた傷によって、
  われわれはいやされたのだ。
  われわれはみな羊のように迷って、
  おのおの自分の道に向かって行った。
  主はわれわれすべての者の不義を、
  彼の上におかれた。

  彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
  ほふり場にひかれて行く小羊のように、
  また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
  口を開かなかった。
  彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
  義なるわがしもべはその知恵によって、
  多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。     (イザヤ 53−1)

 聖書研究家の山本七平氏は、この「苦難のしもべ」を謎の人物と呼び、またこ
の詩を、ヘプル文学の精華、へプル思想の頂点を示すものとし、またキリスト教
徒にはイエス・キリストの出現を預言したものと解され、広く知られるに至った
としていますが、これは私によく当てはまります。「主の腕は、だれにあらわれ
たか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った」。連
続する奇跡に、シャワーのように降りそそいだ奇跡に、私もまた育てられました。
最初は、ただ驚くだけで何も考えることができず、そのうちに、少し気味悪くな
り、最後は、圧倒されるなかで不動の気持ちが確立しました。



 ◆中略◆



 参考になりましたでしょうか? 私もこのまま黙っているのも少し悔しいので、
あなたの判断に訴えてみたかったのです。御迷惑なものとならないことを祈ってい
ます。





©kaminokuni